土間の匂いで思い出した、埼玉の田舎で農業と酪農をしていた祖父母の古い農家

日常

先日、猛暑日が続いていた真夏のある日の朝。

少しでも直射日光を避けようと、椎名町北口駅前の「すずらん通り」を通りました。ここはアーケードがあるんですよね。距離は短いですが。小さい個人経営のお店が並んでいます。賑わいはないですが、静かな時が流れているような雰囲気で、昭和感満載です。

 

で、もちろん朝なのでお店は全部閉まっていて、人通りもほとんどなく、本当に静かな雰囲気でした。

すると、なんだかすごく懐かしい、知っている香りが。

 

朝の少しひんやりした空気に混じる土ぼこりや乾燥した草のような匂い。コンクリートっぽさもあるような。

 

それは、母方の祖父母の家にあった土間の匂いでした。

土間に竈があって、火を焚いてお湯を沸かして野菜やうどんなどを茹でたり。

まさか街中でそんな土間の匂いがするとは。そして祖父母の家を思い出すとは。びっくりでした。

 

土間がある家を回想してみる

土間の匂い、と言われてもある一定の年代や、都会以外に住んでいた事がある人しか分からないかと思います。

 

母方の祖父母が埼玉の比較的田舎よりに住んでいて、農業と酪農をやっていました。90歳近い今も現役で農業をやっていますが。驚くほど元気で何よりです。

家は戦前に建てたと思われる、田舎の農家らしい木造建物。少し黒っぽい木を使用した柱や梁が随所に見えました。

 

そんな祖父母の家は、数年前に建て替え。びっくりするほど近代的な家に生まれ変わりました。

私が年に数回訪れていた、あの懐かしの「THE 田舎の農家」な家の記憶が無くならないうちに、昔ながらの農家の家の造りを思い出して文章に残したいと思います。

 

玄関付近

まず家の入口。玄関扉は引き戸で、そこだけ近年つけたようなステンレスなどのサッシのものでした。昔は違う玄関だったはず。木戸かな。

そして玄関扉を入ると、玄関というよりは玄関広場?

玄関から居室前、そして台所と竈がある土間、トイレ、家の裏口まで全部、土足で行く形でコンクリートが敷かれているのです。

家の中だけど、特定の移動に靴を履く必要があります。ここら辺が「THE 田舎の農家」という感じの作りですね。昔はこういう家が多かったはず。いちいち足袋を脱がずに休憩、食事などが出来る訳で。

 

そんな構造のため、玄関を入った部分は、靴を履いたまま過ごすちょっとしたスペース。

テーブルと椅子が置いてあり、農作業から戻り少しお茶するのに最適な場所です。

隣の部屋側には屋内にある縁側みたいなスペース。靴を履かずにその部屋からちょっとだけ出ることができて、靴を履いた人(たとえばちょっとした来客や郵便屋さんなど)に対応できる形です。あと、そこに電話が置いてありました。

 

で、玄関入った右には農耕具や農作業用品、さらにはお米の精米機などが置いてあるとても広い土間の納戸。

収穫した農作物もそこに置いていたかもしれません。雨の日に農作業をしていたことでしょう。

 

リビング周辺

そんな玄関を入って最初の部屋から奥に土足のまま進むと、左側に生活のメインとなる居室(リビング)です。床はもちろん縁側くらいの高さがあります。登るところの下には大きな木の台が置いてありました。

リビングの中心には掘りごたつがありました。

昔は炭火で温めていたようです。

また、柱には大きな振り子時計がかかっていました。小さい頃はまだ動いていて、時間になると大きな音を立てて「ゴーン」となるのが少し怖かったり。夜、電気がついてなかったりすると恐怖です。

 

一方、そのリビングの反対側ですが、そこはまた農耕具やちょっとしたものが置いてある納戸のような土間。しかし、そこには秘密の階段が・・・。

建物は構造的には1階建の平屋ですが、その土間にある木製の手すりというか側面がない階段を登っていくと、屋根裏部屋と言うような比較的大きめのスペースが1階の上にありました。

昔はそこで蚕を飼っていたこともある、とかいう話をうっすら母から聞いたことがあります。機織りなどもしていたのでしょうか。

私が子供の頃にはもう物置状態で、ほこりだらけで一歩も踏み入れられないような状態でした。猫すらそこには行かない感じでした。

 

台所

左にリビング、右に土間があるのが家の中心部分。

で、さらにその先は正面から左手にかけてが台所。

靴を履いて調理です。普通の人からするとちょっと不思議?でも、床が汚れてもすぐ掃いたり流せるので便利かも。

キッチンは後付けでシステムキッチンをくっつけた感じですが、いたって普通のものでした。

 

竈がある土間

で、キッチンの隣に勝手口というか家の裏につながる出入り口があり、キッチンの反対側には、竈がある土間です。

恐らく家を建てた当初はここが台所だったのでしょう。

 

その土間には薪を貯蔵しておく場所があり、最初に書いたように、薪をくべて火を焚いてお湯を沸かしたりしてました。

おばあちゃんがよくうどんを茹でていたのを覚えています。

 

火は危険ですが、子供にとっては楽しい場所でした。

この竈のある土間を子供の頃に経験できたのは、とっても幸せです。懐かしい昭和の光景です。

 

トイレとお風呂 

その土間の先にトイレとお風呂。

が、これは恐らく後付けで増築したものです。水回りを近代化した際に。

 

当初のトイレとお風呂は恐らく、家を出て隣の建物にあったはずです。

少しだけ見たことがあるのですが、トイレは板を渡しただけのような危険なものですし(子供の頃に近づいて落ちなくて良かった・・・)、確かお風呂は薪で火を焚いてお湯を沸かすタイプでした。

その建物は馬小屋?用にも使っていたとか聞いた気がしてますが。

 

寝室や客間など

寝室や客間はリビングの奥にありました。

メインの寝室は北西。祖父母がベッドで寝てました。

 

その南側には客間が2つ。とはいえ、西側の部屋は、自分が小さい頃、小学校2年生の頃までは、ひいおばあちゃんが寝てました。

ひいおばあちゃんが亡くなった後は、従姉や兄弟で泊まりに行った際に寝泊まりする部屋になりました。

 

リビング真横で、玄関にもつながっている客間は、大勢が集まった時はそこに大きなテーブルを出してご飯を食べたり、雛祭りの時期は立派な雛人形が飾ってあったりしました。

小さい頃、そこに母親と泊まったこともある気がします。

 

井戸のある裏庭

裏庭には井戸が。昔はその井戸水を使って食材などを洗ったり、洗濯もしたことでしょう。

実はたぶん現在も現役です。そのまま残っています。

小さい頃から飲用にはしませんでしたが、冷たい水が出てきて手洗いに使ったりしたことがあります。野菜を冷やしていたこともあるかも。

 

また、裏庭には建物が2棟。これらもまだ残っています。

1つは元々は馬小屋という話。完全に物置と化してます。

もう1つはそこに昔住んでたかも?とかいうような建物。実際、家の建て替えの最中は、祖父母はそこで数ヶ月生活をしていました。なので、水道などもある模様。

 

増築部分

トイレとお風呂が後から増築と書きましたが、実はその部分の上、つまり母屋の東隣りには叔父夫婦が暮らす建物が増築されていました。こちらは木造ではなく鉄筋製。

1F部分は車を停めるガレージと、その奥がトイレとお風呂にあたります。

 

2Fだけが叔父夫婦の生活スペースですが、寝室とリビングがあり、若い叔父夫婦の部屋にある漫画や衛星テレビ、ゲームなどは子供頃の私にとっては輝いて見えたものです。

この建物は、今も残っています。

部屋の中は猫の棲家になってしまっているようです。

 

東側の別棟

先ほど書いた、初期のトイレやお風呂があった建物です。今は壊して撤去して更地になっています。

そこに車とショベルカーを停めてあります。

ショベルカーは祖父が農作業用に買った、個人所有のものです。畑を掘り返すのに便利だとか。

趣味みたいなものというか、おもちゃですね。

 

酪農と牛舎(牛小屋)

最後に祖父母の家を語る上で重要な、もう1つのメインとなる建物。

それが牛舎です。

 

私が小学校低学年の頃までは、庭の隣にある牛舎で牛を飼っていて酪農をしていました。

牛は20頭近くいたような気がしますが、正確な数は不明です。

 

当時の私は「牛小屋」と呼び、祖父のことは「モーモーじいちゃん」と呼んでいました。

 

牛たちはおとなしいですが、たまに低い声で鳴いたりするのでちょっと怖かったです。

また、怪我や事故がないように、祖父母は他の人があまり立ち入らないようにしていたので、牛とちゃんと触れ合ったことはほぼなく、心残りというか今となっては貴重な機会を逃したと思います。

 

毎朝4時とか早くに起きて、牛小屋を掃除し、餌の飼料や藁をあげて、搾乳機で乳を搾り、銀色の巨大な鉄製?の牛乳缶にその牛乳を詰めます。

その牛乳が入った缶が重くて、よく祖父は運んでいたな、と思います。当時既に60歳前後だったろうに。

 

そして、その牛乳缶をリヤカーにたくさん載せて、家から500mほど離れた集荷場へ運んでいきます。

家の前の道に出るちょっとした坂を重いリヤカーを引いて登り、踏切を越え、大きめの道路を渡り、緩やかな坂を登った先に集荷場があります。

無人の集荷場内にある冷蔵庫代わりの、冷たい水が張ってある水槽のような場所に牛乳缶を運び入れます。これがまた腰にきそうな大変な重労働だったかと思います。

それが終わると、帰りは逆にそこに置かれている空の牛乳缶(洗浄済み)をリヤカーに積んで家に戻ります。

 

昔は祖父の家以外でも近所で酪農をやっていた家があったのか、その集荷場には同じような牛乳缶が集まっていたようです。

 

また、もちろん牛の世話は一日中必要ですし、夕方も搾乳して牛乳を出荷していました。

小さい頃は、兄弟や従姉と泊まると、牛乳の出荷で重いリヤカーを引く祖父の手伝いということで、後ろから押したり。たいした助けにならなかったでしょうが。

そして、出荷が終わるとリヤカーの荷台は入れ替わりに空の缶だけになるので比較的軽くなり、私たちはそこに乗っておじいちゃんに引いてもらって帰るのでした。

 

酪農という動物の命を扱う大変な仕事をしていた祖父母を本当に尊敬しています。

 

本当に楽しい昭和の思い出です。下手すると昭和30とか40年代のような光景ですが、実は昭和末期~平成初期です。

貴重な体験ができる、面白い環境に育ちました。

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