あれから今年で4年が経ちますが、備忘録として震災当日のできごと、地震発生~自宅に帰宅するまでを振り返っておきます。
[序章(プロローグ)] IT企業でネットワークエンジニア
当時、私はIT企業でネットワークエンジニアとして働いていました。
新卒で入社した会社で、ちょうど5年目になりかける頃でした。
ネットワークエンジニアとしては、ルーターやスイッチ、サーバーロードバランサーといったような機器を操り、自社が提供しているサービスのネットワーク構築と運用を担当してました。
ネットワークエンジニアの仕事は、大変楽しいものでしたが、オンラインの機器を触ることも日常的にあるので、ひとつコマンドを間違えるとサービスの停止につながり、あっという間に億単位の損失もありえるという非常にシビアな仕事でした。
また、触る機器も1台数百~数千万円するような高価な機器ばかりで、社会人になってこのような仕事につかなかったら触る機会がなかったと思われる、エンタープライズ製品達でした。
当時はそういった機器のメンテナンスや構築、検証作業などで最低でも月に一回、データセンターに行く機会がありました。
直行・直帰で終日データセンターへ行って作業したり、データセンターの中にある事務所で仕事をしたりするので、普通の人より外出が多く、上長の監視外で働くこと、つまり自主的な判断を求められる場が多かったです。
とある機器の導入をメインで担当した時は、1年のうち合計すると3か月間はデータセンターで勤務していたことになるくらい、データセンターに通ったこともあります。
データセンターの運営は協力会社に委託しているので、社員は自分達以外にいないことが普通でした。そしてその協力会社の方々は若くて優しい人たちばかりだったので、データセンターではのびのびと快適に仕事ができて、とても良い仕事環境として気に入ってました。
[第一章] データンセンターにて被災
後輩とデータセンターにて仕事
2011年3月11日、その日はちょうどデータセンターにいたのです。
半年前に自分がメインとなり導入した機器の検証作業と、2日後に予定されていた週末の夜間メンテナンスの作業準備があり、1つ下の後輩と一緒に仕事をしていました。
データセンターは都内、23区の東側の方にありました。
海は見えませんが、比較的海と近い臨海地域とも呼べるようなところです。
当時住んでいた埼玉の実家からは電車を3つ乗り継ぎ、そこから徒歩で15分ほど、合計2時間かかる距離でした。
その日は、午前中からサーバルーム内で作業を行い、少しだけランチタイムを遅めにずらして昼食を取りました。
確かコンビニで何か買って来て事務所内で食べた気がしてます。
そして昼食を14時過ぎに食べ終え、メールチェックなどのデスクワークをこなし、15時になったら続きをしようかと話していた14時46分に大きな揺れを感じたのでした。
最初の揺れの時の記憶はほぼ無し
ちょっとガタガタ揺れ始めたと思ってからすぐに大きな縦揺れ、そしてこれまで経験したことのない大きな横揺れがきました。
その時の記憶はあまりないでのすが、確かほぼ何も出来ずにボーっとしてました。大きな地震を経験したことがなかったので、現実感がなかったです。
そんな大きな揺れでしたが、幸いにも自分もその場にいた人達も怪我はなく。
ちょうど席の後ろに大きな棚(扉付)や、冷蔵庫や電子レンジがありましたが、倒れてくることもありませんでした。
もうちょっと大きい揺れだったら下敷きの可能性もあったかもしれません。
建物自体も、データセンターということでかなり堅牢に作られているためか影響なし。
電気も途切れることがなかったです。もしかしたら自家発電に切り替わっていたのかもしれませんが。
地震後にすぐに部署内でチャットが飛び交いました。
仲が良かった同期からもチャットが来て、混乱し脅えている様子の文面でかなり焦りました。
サーバやシステムへの地震の影響
幸い誰も怪我もなく、データセンターのスタッフさん達は地震後すぐにサーバルームへ機器の目視点検に行きました。
いくつかのサーバは地震の影響か故障状態になっていたそうですが、大部分は無事でシステムダウンはしてないとのことでした。
地震発生時刻にサーバルーム内にいた人の話では、サーバラックがびっくりするほど揺れて迫ってきたので、身の危険を感じたそうです。
インターネットのトラフィックが大幅にダウン
一方、インターネット上では地震の情報を集めるためにアクセスが集中し、Yahooなどのポータルサイトには繋がりづらい状態になりました。
自分も、自社のネットワークを確認すると、なんとインターネットからの流入トラフィックが数Gbpsも落ちていました。機器はすべて正常にも関わらず。
これは驚いたとともに、大変なことが起こったと再認識した瞬間でした。
なぜなら、それは日本の何割かの人がインターネットに接続できない状態になったということを意味するのです。
ここら辺でようやく、被害の甚大さに薄々気づき始めたのでした。
自宅や親へは連絡つかず
会社のシステムはほとんど影響なくたいした騒ぎにならなかったので、自分の身の回りの確認を始めました。
自分の携帯電話(iPhone4)から親へ電話をするもつながらず。携帯電話も家の電話も両方ともダメ。メールをしても送信エラー。当時はLINEとかまだなかったので、それ以外の手段はほぼ無し。
そして、田舎の祖父母の家に電話してもつながらない。
困ったので、都内で商売をやっている叔父のお店へ電話すると、都内同士だったためか繋がりました。
とりあえず身の安全を伝えて、今日もし帰れなくなったり困ったりしたら頼らせてもらうかも、ということを伝えた気がしてます。
余震の方が恐怖を感じた
そんなことをしていた15時15分。
たった30分後に最大の余震が来ました。
前回は初の大地震体験で現実味がなかったのですが、今回はそれを知っている分、本当に恐怖でした。
棚など倒れやすいものがあるため、すぐに席を離れて物があまりない場所へ逃げました。
が、近くのコピー機が暴れだす!思わず反対側にいた人と二人でコピー機に捕まり必死に押さえました。
今思うとそれは少し危険なことだったかもしれませんが、コピー機が暴れて飛んでいってたら、それはそれで危険なので、自分の行動が正しかったかどうかは分かりません。結果としては無事でした。
この二回目の地震(余震)は、揺れが激しく、物が揺れてぶつかる音がすごく、時間も長く感じる、というよくテレビなどで観る再現シーンと本当に同じものでした。
少しずつ情報が入り始め、焦るよりは落ち着く
最大の余震の後、ネットも普通につながり始めたり、本社でテレビ中継を観始めた人もいたりして、情報が徐々に入り始めました。東北地方がヤバそう、というのもこの頃分かった気がします。
予想通りかなりの被害がみられ、電車など交通はほぼストップというのもすぐに知りました。
本社の方ではさすがに余震で緊急事態と判断したそうで、部署長から帰宅可能との通達が出ました。帰る手段が見つかる人は、という限定付きですけど。
タクシーを捕まえて乗合したり、歩いて帰った人も結構多いみたいです。
一方、データセンターにいる自分と後輩。完全に出遅れ&取り残された形に。
どこにも脱出できません。そういった諦めが早い段階で分かっていたので、焦るというよりは落ち着いてました。
とりあえず、まずは食料の確保はした方が良いと思い、近くのコンビニへ。
ビンなどが多少割れたみたいですが、比較的無事。普通に営業してました。
軽くお菓子的な食料を買いました。今思うと、もっと危機感を持って、食料や電池など色々と確保しておくべきでした。
コンビニへ行く際に気になったのは、まずデータセンターの建物。
かなり堅牢な作りのはずが、廊下や階段にひび割れが。白い破片がたまに床に散らばってたり。
エレベーターは停止されてました。
建物の外に出ると、目の前に公園には一時避難している方々が。近くには少し古めの団地のような建物もあったので。
また、敷地内では液状化現象と思われる凸凹が。埋立地なのでいたるところの地面が歪んでました。
実際、震災後にはエントランスと地面の段差がひどく、半年くらい各所を工事して直していた気がします。
[第二章] データセンターから脱出し帰宅難民として長い旅へ
会社を目指す
会社の人達が徒歩やバス、タクシーなどで脱出していく中、データセンターで待機していました。
この時は、夜中までデータセンターで過ごし、夜かもしくは明朝に地下鉄が運行再開したら帰れるのかなー、と考えていました。
どうせ自宅は埼玉なので、そう簡単に帰れるはずはなく、その日は無理だと始めから思っていました。
しかし、部署内のチャットで会社までのバスと電車は動いているという情報があり、上司と相談した結果、会社へ向かうことに。
会社の方が色々と装備はありますし、なにより一緒に仕事をしていた後輩が会社の近くに住んでいたのです。
ちなみに、後で分かることですが、この時は情報が錯綜していたので、電車が動いているというのはガセでした。今思うと当たり前ですが・・・
そんなわけで、データセンターのスタッフの方々に別れを告げ、「どうか御無事で」という声をかけられながら、旅が始まりました。
今思うと本当にサバイバルです。帰宅困難者として、難民状態でした。
まずは、すぐ近くの都バスのバス停に行きましたが、バスは来ず。
そこで、目的の駅方面へ歩いて行きながら、バスを拾うことに。
ちなみに、目的の駅へは歩いて1時間弱かかります。
時刻は夕方でしたがまだかろうじて明るかったです。
途中、バスが来て乗ろうとしましたが、満員で乗る事ができず。この頃になると、みんな帰宅し始めていたのですね。
巨大ショッピングモールへ行くことに。配給をもらう
そうして寒い中20~30分歩く中、目的とは違う駅へ向かうバスがちょうど来たので、とりあえず飛び乗ることに。
行先はとある巨大ショッピングモールがある駅。
バス内では、お婆ちゃんが話しかけてきて「家のテレビの画面が割れた」とか言っているのを聞いて、本当にすごい地震だったんだ、と改めて思いました。
また、その頃は緊急地震速報のシステムが壊れていたため、バス内でも何回もみんなの携帯から緊急地震速報が流れ、その度に揺れに備える恐怖の繰り返しでした。
バスの中から通りを見ると、徒歩で帰宅する人々がたくさんいる姿や、吉野家やマクドナルドなどのファストフード店が軒並み臨時閉店している光景が。
もう既に夕方の時点で都内の様々なお店は閉店やら在庫切れでカオス状態になり始めてるのが分かりました。
乗っていたバスは無事に終点に着き、その近くのとある巨大ショッピングモールへひとまず避難をすることに。
が、なんと既に臨時休業。地震の影響でもう既に閉店してました。安全などを考えると、営業なんてしている場合ではなかったのでしょう。
やはり周りには同じように一晩の避難場所を求めてる人がいました。
すると、なんとその巨大ショッピングモールに入っているスーパーが温かいお茶とパンの差し入れを提供してくれていました。
従業員のみなさんも地震の対応や自分たちも早く家に帰りたかったりするだろうに、とっても優しい対応。
パンはお店の売り物を配ってる感じでしたし。
この震災で一番ありがたかった優しさでした。神対応。
行き場を無くして彷徨う帰宅難民
温かいお茶とパンを貰い少し回復した私と後輩。
とりあえずそこにもいられないことが判明したので、当初の目的の駅を目指すことに。
そこから歩いて40分くらいです。
時刻はもう既に19時くらい、寒くて暗い中、大通り沿いを歩きました。
行き交う人は少なく、車の流れは普通だったと思います。
消防車や救急車、東京電力の車など緊急車両はよく通っていました。
20分ほど歩いたところ、奇跡的にバスが走ってくるのが見えた!なんとか近くのバス停まで走って、乗ることに成功。
乗客はほとんどいませんでした。
バスなどで帰れる人はもう帰宅済みか、それか帰ることを諦めて会社に居残る人もいたのでしょう。
そして、当初からの目的地であった駅にようやくたどり着いたのですが・・・
案の定、動いてない。再開の見込み無し。
しかも後で気づいた&知ったことなんですが、より沿岸部へ来てしまっていたので、津波とかあったら一発で終了でした。
例え東京であっても、なるべく陸側へ進むことをこれからは気を付けないといけません。
3.11では東京でも津波注意報がずっと翌日まで出続けていましたからね。
そんなわけで、誰も人がいない閉鎖状態の駅で途方に暮れる若者二人。
もう絶望的でした。
どこにも行けない。
周りに施設は何もない。
奇跡の出会い
仕方なしに、来た道を1時間弱くらい歩いて戻り、データセンターで一晩を過ごすか、と考えていて絶望が訪れそうになった時。
目の前を空車のタクシーが!
タクシーはもうほとんど走っていなかったし、走っていても「空車」の表示をしていなかったので、本当に奇跡でした。
急いで呼び止めると、行先を聞かれます。
その方向なら大丈夫だ、と言われ乗れることに。
話すと、運転手のおじさんはもう家に帰ろうかと考えていたところらしく、ちょうど同じ方向で途中なのでOKしたとのこと。
あまり喋らない寡黙なおじさんでしたが、途中混んでる道を裏道で迂回してくれたりして、Good Jobな感じでした。
途中、レインボーブリッジを通りましたが、歩いて渡る人の姿も多く、レインボーブリッジをタクシーで通れたこと自体運が良かったと思えたのでした。
また、道路も大変な混雑でほとんど動かない状態のところもありました。
運転手のおじさんも家に早く帰りたい、そして会社に近づくにつれて、東京から脱出(帰宅?)する大量の車で道路が混んでいてほとんど動かなくなった、という状態になり、途中で降りることに。会社まで残りは30分ほどど歩きです。。
ちなみに、そこまでのタクシー代は1万円近く・・・。
夜22時を回っていましたが、建物や街灯などの電気は問題なかったので外も明るく、特に問題なく歩けました。
途中道路脇にあるコンビニは、どの店も本当にびっくりするほど食料などの在庫がない状態。
みんな行動が早いですね。
自分は震災直後にコンビニで買った食料と、途中のスーパーで配給してもらったパンを持っていたのでそれほど不安ではなかったですが、もしお腹がすいていたらやばかったでしょう。
22時過ぎにようやく会社到着。帰宅難民はまだまだ続く
結局、まだ明るい夕方にデータセンターを出てから6時間近く経ってようやく会社に到着。
しかし会社に着いてからもまだまだ試練が。
自分のフロアは当時10Fだったのですが、エレベーターが止まってて動いていない。
当日の復旧は無理だったみたいです。
そのため仕方なく階段で10Fまで上がることに。
結構疲れました。
そして、階段の床は壁から剥がれ落ちた白い破片や粉がびっしり。壁にはもちろん亀裂が。
やはり会社も揺れが大きかったみたいです。
息を切らせながらなんとか自席にたどり着くと、帰れずに会社に残ってる人は意外と少ないことが判明。
10人もいませんでした。
なんと上司は残っていてくれて出迎えてくれました。
しかも会社まで来るのにかかったタクシー代をくれました。後で経理になんとかねじこんで、ちゃんと会社から経費として貰ったそうですが。
そんな素晴らしい上司は、私たちの到着を見守ってから帰宅。
後輩も家は会社の近くなので帰宅し、部署では自分だけが残ることに。
埼玉に自宅がある時点で当日中の帰宅は諦めていて、元々どこかで夜を越すのは想定済みですが、まさか会社の自席とは思ってもいなかったです。データセンターからはるばる来たものです。
ちなみに会社の設備としては、トイレは普通に使えるのですが、自動販売機の飲み物が軒並み売り切れになってしまっていたのが痛かったです。
幸いにもいくつかのフロアをまわればお茶を手に入れられましたが、やはり会社で夜を越す人たちが何人かいるので、売り切れが多くなったようです。
深夜に会社近くのコンビニにも行ってみましたが、基本的にはほぼ何もない状態でした。
みんな買って帰ったんでしょうね。
Youtubeでテレビが中継されていて、東北が大参事になっていることを知る
ひとまず自席で情報収集をしつつ、翌日の朝になったら電車が動き出すだろう、と思っていたのでネットサーフィンです。
Yahooなどのニュースサイトはどんどん新しい情報が更新されていました。
ただ、ガセネタっぽいというか、確実な情報ではないものが多かった気がします。
Youtubeではテレビの中継映像が。特例でストリーミングもやってたりしたので、情報に飢えていた身としては助かりました。
そこで、津波の映像を初めて見ました。あまりにも衝撃的すぎて、現実に起こったこととは思えませんでした。
こんな信じられない光景が現実に、しかも日本で起きたという事実。しかもそれが今日だった、ということを。
生きているうちに大きな地震に遭遇することは以前から考えていましたが、実際に経験してみると本当に非現実的すぎました。
揺れに対して為す術もないし、何が危険か?というリスク分析をする余裕もなかったです。
今思うと、それは初めての体験/経験だったから、と少しは思えます。今度同じような状況になった時、もう少しは危機感を持って動けるとは思います。
実際、会社にいた阪神淡路大震災を経験している関西出身者の方々は、地震が起きたらすぐに扉を開けて机の下に隠れる、など行動できていたそうです。
そういったことからも、避難訓練の大事さを学びました。大人になってから避難訓練ってあまりやらないですからね。
普段から行動をシミュレーションしておくのは大事です。
Youtubeではその他、地震が起きた際の各局テレビ中継の様子など、続々とユーザーによってアップされる動画を見ました。
また、千葉のコンビナート火災など、東京に近いところでの被害を見たり聞いたりして恐怖が増しました。
なお、自席でそうして過ごしている夜中も、余震はまだまだ続き、たまに大きな揺れが襲いました。
1日で大きな揺れが何度もくる異様な状況に、少し麻痺し始めていました。
また、会社の前に少し大きめの道路が通っているのですが、夜のうちはずっと渋滞していて、今まで見たことがないくらいの車の量でした。
[第三章] そして帰宅へ
翌朝、自宅へ帰ることを決意
暖かく、電気もあって、インターネットも使える、そんな恵まれた状況で過ごした震災当日の夜は終わり、やがて翌朝に。
少し机に伏して寝たりはしましたが、さすがに前日歩き回ったり、緊張していたので疲れがかなり溜まっていました。
自宅にいる親とも会いたいので、早いうちに自宅へ帰りたいと考えていました。
帰宅手段は電車しかないので、電車の情報は常にチェックしていました。
深夜に東京メトロが運転再開をしたり、私鉄は翌朝からの運行に向けて頑張っているという情報。
しかし、JRは復旧が厳しそう、という情報も。
そして、朝7時頃にいくつかの私鉄が運行しているという情報を得たので、帰宅を決意。
いつもはJR埼京線を使って会社から池袋まで行くのですが、JRは当面動きそうにありません。
なので、まずは会社からとある私鉄の駅まで歩くことに。
震災の翌朝は、車どおりもほぼなく、街の光景は至って普段と同じ、もしくは少し静かに感じるくらいでした。
3月中旬なので、朝の気温は低かったです。息が白くなり、手袋が必要でした。
静かで冷たい震災の翌朝、普段は歩くことがない街を歩いているのが、これまた非現実的でした。
通常の2倍の時間、4時間以上かかって自宅に到着
30分以上歩き、とある私鉄の駅へ到着。
そこにはJRも乗り入れているのですが、予想通り運休中。
特に待ってる人もなく、駅員が騒いでいる様子もなく、随分と諦めモードだなと思いました。こりゃ当分ダメだと実感&納得。
そして私鉄は問題なく動いていました。
が、実はその私鉄、神奈川方面行き、つまり都心方面とは逆の方向に向かう鉄道です。
埼玉に帰りたいのに、神奈川方面へ行くという一見するとおかしい経路ですが、これはあえての道のり。
神奈川手前で別の路線に乗り換え、なんとか渋谷に到着。
既に会社を出て1時間以上経過。でもまだまだ。
普段なら埼京線や山手線で池袋まですぐ簡単に行けるこの道のりも、JRが無いので別の方法を考えることに。
真っ先に思いつくのは、東京メトロ副都心線。実は簡単に早く行けます。
が、震災翌朝は運休か、もしくは本数が極端に少なくて、危険な香りがするのをネットの情報から仕入れていました。たぶん、複数の私鉄に乗り入れていて、独自の路線部分が少ない副都心線は運行が難しかったのでしょう。
そこで、渋谷からは東京メトロ半蔵門線で永田町へ。
永田町からは今度は有楽町線で池袋へ。
もちろん本数少ないので混んでた&乗り換えでめっちゃ待ちましたけど。
そんなこんなで、一旦神奈川方面へ向かいつつ、一度山手線の中へ入ってから、再度山手線の外側へ出るという、ジグザグな戦法でなんとか池袋まで辿り着いたのです。
普段は電車で30分くらいのこの距離、もう3時間近く経過してましたね。
そこからは埼玉の自宅までの私鉄が随分と頑張って不通に運行してくれていたので楽でした。
ただ、当然特別ダイヤなので急行とかがなくて各停だった記憶があります。
結局、4時間以上かかって自宅に着いた頃にはもう既に昼過ぎ。
埼玉の地元は地盤が強固なためか、被害もほぼなくいつもの光景。
自宅も倒れた物もたいして無かったみたいでいつも通り。親も猫も元気。
このいつも通りの光景にほっと一安心して、ようやく落ち着いたのでした。
また、ちょうど帰宅途中に震災翌日の深夜から予定されていた夜間メンテナンス作業は中止にする、という案内が会社から来ていたので、出社する必要も無かったので、週末は自宅でゆっくりできたのでした。
[終章(エピローグ)] 震災翌日からその後
震災翌日の土曜日と、その次の日曜日は自宅でゆっくり過ごしつつ、テレビで段々と明らかになっていく被害状況を見ていました。
また、余震もかなり多かったです。その度に家がミシミシと音を立てていて、家へのダメージを心配しました。
そして、緊急地震速報のシステムが壊れていたため、誤報が多かったです。地元の街では、緊急地震速報が入ると防災無線で流れるのですが、それが本当に恐ろしい。
緊急地震速報の合図の例のメロディーの後に、「大地震です」と低い男性の声が市内に一斉に流れます。
ちょっとトラウマになるレベル。
その他にも
- 3月14日から始まると突然告知された計画停電(輪番停電)の煽りをうけ停電になったり
- そのため電車もまともに動かず会社へ行けない日々が続いたり
- 結局会社は自宅待機が1週間続いたり
- 会社に行くようになっても電車のダイヤが1か月くらい元に戻らず、大混雑で毎日苦労したり
- とある用事で急遽、大阪に向かったり
などなど盛りだくさんの出来事が。
ここら辺の震災後の苦労話はまた記憶があるうちに、いつか書きたいと思っています。
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